Last Updated 05/20/00
ポニーエクスプレスのStation(中継所)の一覧を表示します。リストは「西向き」に記載します。
中継所は、ルートの変更などにより移動したり、開設と閉鎖を繰り返したりしていました。また、同名で現存する町と当時の町とが何マイルも離れている場合も多くあります。中継所の跡地も同様です。
地図の州名付近をクリックして下さい。表示出来ない場合は、地図下の州名をクリックして下さい。
| California | Nevada | Utah | Wyoming | Colorado | Nebraska | Kansas | Missouri |
![]() |
| Rock Creek Station,Nebraska |
Pony Expressの成功にとって、中継所の存在は無くてはならないものであった。特に人里はなれた地域ではその重要度と依存度が高かった。疲れきった馬を元気なものと交換したり、休憩させたりなど、Pony
Expressの運営に必要不可欠な存在であった。
既存の町やその周辺に中継所を作のは安くて早くて簡単であった。反面、ルートが西へ向かうほど人里から離れた地域に中継所を作らねばならず、その建築は大変困難な作業であった。通常、中継所の管理は2名で行い、キャビン、厩、囲い馬場などは、ゼロから最少の人数で建築しなければならなかった。また、白人やネイティブ達を問わず、つねに馬泥棒からの襲撃に備えねばならなかった。
特に危険な地域は、もっとも危険なネイティブ部族「Paiute族」の縄張りであるUtah西部〜Nevada東部であった。したがって、その地域の中継所には常に勇敢な管理人が常駐していたのである。
中継所の設置場所は、馬の疲労度合いを基準に選ばれた。よって、中継所の場所は、人間や馬の生活とって必ずしも便利な所とは限らなかった。水や草が近くにない中継所の場合、わざわざバレルに水を汲んで運んだり、馬を草の生い茂る草原まで連れていってエサを与えたりしていた。
英国人の紀行作家Sir Richard Burtonが1860年に西部を旅した時の作品「The
City of the Saints and Across the Rocky Mountains
to California」(1861年)で当時のDugway Station,Utahについて次のように記している。
4フィートある穴に、杉の幹を切り裂いて作った屋根が被せてある。屋根にはアドービれんがで作られた煙突がついている。水は樽に入れて運ばねばならず、次の中継所まではアルカリ泥の沼地をぬけていかねばならなかった....。
Pony Expressの中継所には、宿泊設備があり交代のライダーや替え馬のいる「Home
Station」と、馬の交換のみを行う「Relay Station」の2種類あった。中継所の多くはRelay
Stationであった。
Home Stationには宿泊設備が整っていたが、それほど上等なものではなかった。酷い所になると、土床とガラス無しの窓、寝台は壁の中、家具は箱棚とベンチのみ...という状態であった。
中継所にはあらゆる備品が備わっていた。ハム・ベーコン・小麦粉・シロップ・ドライフルーツ・コーンミールなどの食料品や紅茶・コーヒーなどの飲み物(酒類の設置は禁止されていた)、斧・ハンマー・のこぎり・ストーブ・ほうき・ブリキ皿・ブリキや木製のバケツ・蝋燭・毛布・マッチ・はさみ・針・糸などの日用品、ブライドル・ロープ・馬用ブラシ・ボロ取りフォークなどの厩用品、ホウ砂・ひまし油・粉末の酒石・テレビン油などの薬用品、その他ネジ・パテ・グリース・麻ひも・金庫・バッファロー皮のローブなど...を常備していた。
ライダーの終点であり、しばしの休息を得れる場所であるHome
Stationにはこれらの設備・備品の他、装蹄用品(蹄鉄を装着する道具)や馬具用品が揃っていた。また装蹄に関しては、Pony
Expressの馬の殆どが気の荒い走り屋だったこともあり、高度な装蹄技術をもつ人間が行っていた。Pony
Expressの馬への装蹄は時に危険で、作業に半日を費やす時もあった。
Pony Expressのライダー達は、常に急いでいたため、中継所の係員と親しくなる時間が無かった。嵐のようにやってきて、嵐のように去っていく。おそらく気候や地形、ネイティブ達の動きなどの注意事項の通達はあったであろうが、それ以上の会話は不可能であった。ライダー同士でさえ親睦を図ることは困難であった。特にHome
Stationでは疲労と睡魔に襲われ、口を利く余裕はなかったようである。
Pony Expressライダーのおおよその到着時刻になると、Relay
Stationの管理人は馬に馬具を装着し、いつでも出発できるように馬に準備運動をさせていた。昼間は、遠くに見える土ぼこりでライダーの到着を確認していた。また、空気の澄んだ山間部では、遠くから近づいてくるライダーを目視で確認することができた。
当初、ライダーは角笛を携行し、中継所に近づくと角笛を鳴らして到着の合図を送っていた。しかし、装着品の軽量化のため、角笛の携行は廃止された。到着の合図は馬の足音で十分足りたのである。ライダーは中継所に近づくと、尻の下のMochilaをゆるめ、いつでもRelay
Stationの管理人に放り投げれる状態で走っていた。最速で馬の交換が出来るように準備していたのである。
馬の交換はライダーと中継所の管理人とにとって大変緊張する作業であった。いかに時間を掛けず円滑に作業を行えるかが腕の見せ所であった。しかし、この作業は時にライダーと(中継所の)管理人との間に摩擦を生じさせていた。事実NevadaのSmith's
Creekではライダーと管理人の間で発砲事件も起きていた。